アマチュア(U30)部門の最優秀賞金賞は、ヴァイオリンの笠原奈津美さん。普段は獣医師として、動物たちの命と向き合う多忙な日々を送っている笠原さん。不規則な勤務体系と緊張感のある仕事の傍ら、どのようにしてヴァイオリンという楽器と向き合い、今回の栄冠を勝ち取るに至ったのか。その背景には、幼少期からの長い積み重ねと、大人になった今だからこそ見出せた、音楽との独自の距離感がありました。

笠原さんとヴァイオリンとの出会いは、ご自身の記憶よりもさらに昔、3歳の頃に遡ります。ご両親が音楽好きであったこともあり、家庭内には自然と音楽が流れる環境がありました。スズキ・メソードでヴァイオリンを手にし、物心ついた頃にはすでに「弾くことが当たり前」という生活を送っていたといいます。
「自分で選んだという記憶があまりないくらい、気づけばヴァイオリンを弾いていました」と語る笠原さん。幼少期から音楽は生活の一部であり、練習を苦に感じることもなく、ごく自然に楽器に親しんできました。小学校の中学年頃からは個人の先生につき、より専門的なレッスンを受けるようになります。中学生の頃にはすでにコンクールでの受賞歴を持つなど、その才能は早くから開花していましたが、音楽の道を専門に進むことへの執着は、ある時期まで希薄だったそうです。

学生時代はオーケストラが活動のメイン。
社会人になって練習に参加するのが難しくなり、ソロやカルテット、デュオなど少人数編成の演奏が増えた
転機となったのは、進路について深く考え始めた高校生の頃でした。
「音楽大学への憧れは確かにありました。けれど、音楽は専門的に学ばなくても弾き続けることはできる。一方で、もう一つの夢であった獣医師になるためには、専門の学部で学ばなければなりません」。幼い頃から動物が好きで、好きなものを極めたいという探求心を持っていた笠原さんにとって、動物のプロフェッショナルである獣医師という職業は、音楽と同じくらい大きな夢でした。
また、当時知人に一般大学を経てから音楽大学の大学院へ進んだ方がいたことも、視野を広げるきっかけとなりました。「そういう道もあるんだ」と知ったことで、必ずしも今すぐに音楽一本に絞る必要はないと気づき、まずは獣医師としての基盤を固めることを決意します。獣医師という仕事を生活の基盤にしつつ、音楽を愛好家として続けていく。その選択は、結果として笠原さんの音楽人生に「心の余裕」と「自律した情熱」をもたらすことになりました。
現在、獣医師として勤務する笠原さんの毎日は、決して時間的な余裕があるわけではありません。勤務先での仕事はイレギュラーな対応を求められることも多く、シフトも不規則です。それでも、笠原さんは音楽への情熱を絶やすことなく、限られた時間を最大限に活用して練習に取り組んでいます。

2匹の愛猫たち
「仕事がある日は、1時間から多くて2時間くらい。全く弾けない日もあります」と語る一方で、休日の練習量は驚くべきものです。予定のない休日には、6時間から8時間もの時間を楽器の練習に費やすといいます。
「仕事が落ち着いている時は毎日触れますが、繁忙期は休みの日しか弾けないこともあり、週2日程度になってしまうこともあります。なかなか計画通りにはいきませんね」。
社会人アマチュア奏者の多くが直面する「時間の壁」に、笠原さんもまた直面しています。しかし、笠原さんはそれを言い訳にすることなく、ご自身の課題を冷静に分析し、効率的なアプローチで技術の維持・向上に努めています。現在は定期的なレッスンには通わず、自分の中で課題が明確になったタイミングで、単発のレッスンを依頼するというスタイルをとっています。この自立したスタンスこそが、忙しい日々の中でも着実に実力を伸ばし続ける秘訣なのかもしれません。
今回、本コンクールへの出場を決めた最大の理由は「目標が欲しかったから」だと笠原さんは語ります。
「仕事だけの日々だと、どうしても生活にメリハリがなくなってしまう気がして。何か具体的な目標がないと、練習にも身が入らなくなってしまうんです」。
社会人として働きながら趣味を続ける上で、モチベーションの維持は大きな課題です。笠原さんにとってコンクールは、他者と競う場である以上に、自分自身を律し、成長させるためのマイルストーンとしての意味合いが強いようです。2年前にも別のコンクールに出場し入賞を果たしており、定期的に自身を「試す場」を設けることで、演奏技術の向上を図っています。
今回の選曲にあたっては、ご自身が好む「少し派手で、聴き映えのする曲」を選びました。しかし、その曲に取り組む過程は、自身の苦手分野と向き合う苦しい時間でもありました。
「場面展開が多く、多彩な音色が求められる曲なのですが、私は音色を変えたり使い分けたりするのがすごく苦手で。そこは以前からずっと課題に感じていた部分でした」。
以前出場したコンクールの講評でも指摘されていた「音色の使い分け」や「右手の使い方のバリエーション」。特に、緊張すると力が入りやすく、弓を速く使いすぎてしまうことを自覚していた笠原さんは、今回の本番に向けて徹底した基礎練習に取り組みました。
「あえて幼い頃のように弓の真ん中にマスキングテープで印を付けて、限られた幅の中で弾く練習や、メトロノームでテンポを刻みながら弾く練習などをしました。また、曲をさらう時も、弓をゆっくり使いながら音楽の密度を濃くして、インテンポで弾くと見落としてしまう要素を一つひとつ確認し、身体に染み込ませていきました」。
仕事合間の疲れた体であっても、ただ漫然と弾くのではなく、一音一音に意識を集中させる。その地道で丁寧な作業の積み重ねが、今回の演奏の土台を作り上げました。

「デュオやトリオは掛け合いが楽しい」と語る笠原さん
迎えた本番当日。演奏を終えた直後の笠原さんの心境は、決して晴れやかなものではありませんでした。
「自分で納得のいかない部分があり、『あ、音を外してしまったな』『やってしまったな』という気持ちでいっぱいでした。結果が出るまで、しばらくはずっと落ち込んだ気持ちで過ごしていたんです」。ご自身の中では「失敗した」という感覚が強く、まさか優勝できるとは夢にも思っていなかったといいます。しかし、審査員たちの評価は、笠原さんの自己評価とは異なる部分に光を当てていました。
「講評には、冒頭の音が良かったと書いていただいていました。この曲は出だしのインパクトが非常に重要で、太く重厚な音が必要だと自分でも思っていたので、そこを評価していただけたのはとても嬉しかったです」。
一方で、ご本人は依然として厳しい自己評価を持っています。
「総合的に評価していただけたことは光栄ですが、私自身はまだまだダメだと思っています。特にエスプレッシーヴォ(表情豊かに)のフレーズなどは、右手が硬くなってしまい、冒頭との雰囲気の切り替えがうまくいかなかったと反省しています。なぜ1位をいただけたのか、不思議なくらいです」。この謙虚さと、現状に満足しない向上心こそが、笠原さんの演奏をより高みへと押し上げている原動力なのでしょう。
音楽と仕事の両立において、獣医師ならではの苦労もあります。それは怪我との隣り合わせの日常です。
「仕事柄、動物に噛まれたり引っかかれたりして指を怪我することが多く、物理的に練習ができなくなってしまうことがあるんです」。繊細な指先の感覚が命であるヴァイオリン奏者にとって、手の怪我は致命的です。しかし、動物の命を預かる現場では、予測不能な事態が常に起こり得ます。そうしたリスクを抱えながらも、笠原さんは日々のケアを怠らず、楽器に向かえる時間を大切にしています。
また、現在ご自宅には2匹の猫(茶色とキジトラ)がいます。練習を始めると「絶対に邪魔をしに来る」という愛猫たちの存在は、練習の妨げになることもありますが、同時に多忙な日々における最大の癒やしでもあります。

オーケストラを通じてできた、たくさんの音楽友達。
「上手な人と一緒に弾くのは刺激的で勉強になります」
今後の目標についてうかがうと、笠原さんは「いつかオーケストラに入りたい」という夢を語ってくれました。現在はシフト制の勤務形態のため、土日に練習がある一般的な市民オーケストラへの所属は難しく、アマチュアオケのエキストラとして不定期に活動するしかありません。将来的には生活のペースを整え、アマチュアオケにきちんと所属して定期的に活動したいという希望を持っています。
インタビューの最後、笠原さんは音楽に対するご自身の哲学とも言える想いを語ってくださいました。
「一人で弾いていても、正直面白くないんです。コンクールも、他に受ける方がいて、その演奏から刺激を受けることができるから意味がある。仲間とカルテットを組んだり、オーケストラでアンサンブルをしたり、やはり音楽は他者との関わりがあってこそ楽しいものだと思います」。
コンクールに出続ける理由を「ストレスのない生き方も良いけれど、やっぱり成長を感じられないとつまらない。適度な負荷と目標がないと」と分析する笠原さん。ストイックに自身を追い込む強さを持ちながら、その根底には「人と音を合わせる喜び」への渇望があります。
「いつか仕事も落ち着いて、いろいろな人といろんな音楽を楽しんでやっていきたいですね。ソロも、オーケストラも、室内楽も。ジャンルや形態にこだわらず、幅広く演奏を続けていきたいです」。
獣医師として命を守る手と、ヴァイオリニストとして音を紡ぐ手。その両方を持つ笠原さんの毎日は、これからも忙しく、そして豊かに続いていくことでしょう。また素敵な演奏を聴かせてくれることを楽しみにしています
全国大会での笠原奈津美さんの演奏はこちら。

